エッセイ
川越市在住、秋元貴子さんの作品を掲載します。
秋元さんは、全盲のお子さんを育てているお母さんです。
「生活教育」という先生と父母の交流史に掲載されたものを読ませてもらい、思いの詰まった文章に感銘をうけました。
ぜひ「Mothers' Cafe」でも掲載させてほしいとお願いし、許可をいただきました。
全盲のお子さんを育てるお母さんの思い、一人の母親としての思い、娘さんへの温かい気持ちが詰まった素敵な文章です。
ぜひたくさんの方に読んでいただきたいと思います。
親がつくる親のページ
「娘と共に、笑顔で歩く道」
秋元貴子(埼玉県川越市在住)
(1)「家出したい」って?
いつものように6歳の下の子を寝かせ、時刻は午後10時近く。中学2年生の娘と話をする。
娘「ねえ、私も家出してみたいなー」
母「家出かー。そうだね、なかなか難しいもんね。でも、何で家出したいの?」
娘「ただ何となく!パッと家を飛び出して、そして、2・3日後に帰ってくるの!」
母「それじゃあプチ旅行じゃないの?まあいいや、今度、家出して突然行ってもいい家を探しとくね。おっ、もう寝なさい、おやすみ…」
そして一週間後の夜、
母「この前の家出の話だけど、〇〇さんと〇〇さんの家なら大丈夫と言ってくれたよ。〇号室と○号室だから行き方解る?解らなかったら自分で覚えてね。家出なんだから」
娘「わかった!」
こんな会話を聞いた人は、「なんておかしな母親だろう。子どもの家出先を斡旋するなんて」と思った人もいるでしょう。でも、娘が全盲の視覚障害者と聞けば、少しは納得してくれる方もいるのでしょうか。
娘は生まれつきの全盲で、一人で自由に外を出歩く事はなかなか難しいのです。私は夜の何気ない会話から娘の心境を考えました。年も13歳中学2年生で思春期、普通の子であれば自転車で友だちと出かけたり遊んだり、買い物をしたり、親が一緒でなくても自分だけで自由に行動できるだろうし、親とケンカしても家の近くのお店や友だちと気分転換して帰って来ることもあるであろうに。近くに家族以外に愚痴を言える人が必要だと思いました。その結果が前の会話に至るのです。
いつも、こんな風にコミュニケーションとりながら何を求めているのか?私は何をすべきか?を考えてどうにか今までやってきました。
(2)娘の障害に出会って
娘は3824gと大きくしっかりした体で産まれ、とても大きな声で泣く元気な子でした。2か月の時に追視をしないし、眼の動きもどこかおかしいなと思い地域の眼科に行きました。すると、すぐに大学病院を紹介され検査をし、網膜剥離をおこしていて眼が見えていない事を知らされました。事実を知った時、あまりのことにバットで後頭部を殴られたような衝撃に襲われ、一瞬音が消え、ざわざわと耳に音が戻ってきたとき、先生の話をさえぎって、私は、「両目見えなくてどうやって生きてくんですか!!」と涙をこぼしながらも、強い言葉を吐き捨ててしまっていました。この時のことは今でも鮮明に覚えています。
見えない事実を知らされたとき、視覚障害についての知識が全くなかった私は、先の事は考えられず、どうやって二人で死のうかと冷静に考えていました。そんなことを考えながら2週間ほどたったある夜、ぼんやりと娘の顔を眺めていると、とても幸せそうな笑顔の表情を見せてくれたのです。ここでも無知な私は、「眼が見えなくても笑えるんだ!」「こんな表情できるんだ!」と、この時知り、気が付くと私も笑顔になっていました。そして、この笑顔が私の中の何かを変えてくれたのでした。
その後は、大学病院からさらに、小児眼科の権威の先生がいる大きな病院を紹介され、そこで両目とも時期を変えて網膜剥離の手術をしました。残念ながら、見えるようにはなりませんでしたが、死という言葉は頭から消え、私は視覚障害者関連の書物を読み、何をすれば良いかを学びました。視覚以外の嗅覚・聴覚・触覚・味覚を刺激することが大事だとわかり、生活や遊びの中にそれらを刺激することを取り入れました。何かやるときは自分でも目をつむりやってみてから子どもにもやらせました。子育ての方法も常識という囲いをとっぱらいました。外にも沢山でかけ地域の健常児の育児サークルにも入りました。身近に視覚障害児がいることを知ってもらうためと、同年代の子達との触れ合いも大事にしたかったからです。
そして、同時に障害児サークルにも入り、色々な障害を持つお子さんと、そのお子さんを育てるたくましいお母さん達とも出会い、私にとって良い刺激になり勉強にもなりました。
(3)教育の場を求めて
3歳からは盲学校の幼稚部に通い始めました。この頃はこだわりが強くなかなか物事をスムーズにやる事が苦手でした。好き嫌いも多く給食を食べなかったり、先生とではトイレにいかず、ずっと我慢したり、私も手を焼く時期でした。でも、友だちの影響で着替えができるようになったり、「何で?」「どして?」攻撃で色々な事を覚え、たくさんお話してくれたり、成長も楽しみでした。
そんな中でも私は見えない落とし穴にはまり子どもを苦しめる事をしてしまっていたのです。
盲学校は同じ様な障害を持った方たちの集まりです。今まで周りに視覚障害者がいなく出来ない事があっても、見えないからできないんだと、あまり気にならなかったのですが、ここではそれは関係ありませんでした。私は友だちができる課題に、我が子ができないでいると知らず知らずに比較し、「どうしてできないの?」と叱ってしまったり、一つひとつの態度に、これはダメ!あれはダメ!と口うるさい母親になっていました。しかも、自分では躾だと思い込んでいたのです。そんな時ある先生から「最近表情良くないし、笑わないよ!お母さんおこりすぎてない?」と言われました。私はハッとし動揺しました。私のせいで娘は自信を無くし、あまり笑わなくなっていたのです。赤ちゃんの時に私に変わるきっかけをくれたあの笑顔を私が奪っていたのです。
私は自分の間違いに気が付き愚かさに腹がたちました。それからは、反省して極力叱ることはやめ、見守るという大事な事を知りました。「うちの子はうちの子。皆同じじゃない!」そう思い子どもの気持ちに寄り添ってみたら、娘に笑顔が戻ってきたのです。改めて子育ての難しさを痛感する出来事でした。
小学生になり2年生の時に弟が産まれました。目に娘と同じ障害がありましたが、症状は幾分か軽く、弱視で悪いながらも視力があるので、娘の時よりは育児は楽でした。ただ、今息子の眼にはどのように見えているかははっきりと解っていないので弱視については現在も勉強中です。
(4)障害を受け入れながら
そんな見える弟の事を娘はうらやましくてしかたなく3年生の時に見えない事の不満が爆発しました。この頃になると、自分の障害の事もだいぶ解っていて、障害があることで健常な子の遊びにはついていけず、悔しい思いをたくさんしていました。この日も外遊びから帰った娘は「何で私だけ見えないのよ!!何で見えなく産んだんだよ!弟は見えるのに」と泣きながら私に怒ってきました。いつかこの日がくると解っていたので何度も何度も頭の中でシュミレーションはしていました。答えもちゃんと用意してたのに、いざその時がきたら何の役にも立たず私も娘と一緒に泣きました。「ごめんね」と謝っていました。そして、「ママの眼をあげてあなたが見えるようになるなら今すぐにでも、両目とも喜んであげたい」と言うと娘は「ママ見えなくなっちゃうよ!いいの?」私は「いいよ。あなた見てたら、見えなくなること怖くなくなったの。大丈夫だよ」少し考えて娘は「ひとつでいい、ママが見えなくなって私の事見えなくなるのはヤダ!赤ちゃんだって困る」と言いました。それを聞いて二人で泣きながら笑いました。
それから何回か爆発を繰り返しながらも、娘は時間と共に見えないことを受け入れていきました。
13歳になった今は自分の障害を堂々と説明し、何の援助が必要か言えるようになりました。ここまでの道のりもなかなかのもので回り道も沢山したし、時には立ち止まったり、何が正しいのか解らなくなったとこもありましたが、どの道も、何一つとして無駄な道は無かったと感じています。これから先も多くの道、分かれ道もあるでしょう。
その道を、笑顔で歩いていきたいです。娘が見せてくれた笑顔のように。